漆器用語事典

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青金一あおきん一蒔絵などに用いられる金粉で、少量の銀か混じリ青味を帯ぴている。"小判""常色"といい、平安後期の蒔絵のなかにもみられる。
赤城塗一あかぎぬり一確かな記録はないが、大正十年ごろ村上市から前僑市に移り住み、竹工を生業とした佐藤幸一か、昭和初期、竹工品に漆を塗って"赤城塗〃として売ったのが、その名の起りと思われる。久留米藍胎漆器は藍を素地にし、漆塗で漆器として仕上げたものだが、"赤城塗"は竹の素地をそのまま生かし、漆を薄く塗ったもので、漆器というより竹工芸品の色彩が濃い。しかし、漆を塗ることによって美しさもまし、耐久性も強化され、一時は特産品として知られた。現在、群馬県では竹工は盛んであるが、漆工はまったく絶えている。
曙塗一あけぼのぬり一朱塗を下塗りにして、上塗りを黒漆、または透漆を塗って仕上げ、部分的に下の朱が透けて見えるまで研ぎぽかし、さらに磨き上げたものを暁紅とみたてて、"曙塗"として商品化したもの。後には、研ぎと磨きの手問をはぷいた塗り、立て(花塗り)の曙塗が生産され、一般化した。まず朱漆を部分的に塗り、その境目近くま黒漆または透漆を塗る。細い刷毛によってその境を塗りぽかし、さらに幅の広い刷毛を用いて刷毛びきをすると、朱色は薄い濃淡を表わし、曙光のような感じとなる。
厚貝一あつがい-螺鉗に用いる貝。
編組素地一あみくみきじ一ひご状にした竹や、食物の蔓を編んで漆器の素地としたもの。竹を編んだ藍胎漆器がその代表で、ビルマやタイの漆器はほとんどがこの藍胎で作られているほか、わが国では久留米において行なわれている。竹のほかには藤や杞柳、あけび蔓などの編紐素地があり、いずれの場合も、漆ののりがよいように、表皮を薄く剥いでから用いられる。
正倉院には葛を組んで箱形にし、赤漆で仕上げた赤漆葛箱が伝えられている。
荒味漆一あらみうるし一山で採集したままの漆で、木の皮とか、ごみがはいっている状態のままの生漆、
粟野春慶一あわのしゅんけい一茨城県水戸産の"春慶塗"で、延徳元年(一四八九)稲川山城守が、桂山周辺に群生している漆と松、梅を利用し塗物を研究し、その孫義忠の
代に東茨城郡桂村粟野に住んで春慶塗を業としたのか始まりとされ、代々改良されながら受け継がれてきた。二代水戸藩主徳川光圃が、八代稲川與兵を召し出して、栗野春慶と名づけて生産を命ぜられたといわれている。
漆の精製、木地づくり、漆塗まで一貫して作られる手づくりの漆芸であり、角膳、重箱、
赤飯などを入れて持ち歩く行器など、実用向きの製品が作られている。
五百年の歴史のなかで受け継がれ、桂村を中心に栄えた粟野春慶も、現在では、水戸家塗物御用達をつとめた総本宗である稲川家一軒となった。
一あわび一鮑貝の殼を螺釧の材料として使う。一ミリほどのものを厚貝、十分の一ミリを薄貝、薄延板を揉み砕いた平目状の細粉を鮑微甚貝という。
一いっかけ一木杯、吸物椀、盆などの縁や、小箱など漆器の合口に金銀粉を蒔いて
装飾したもので、漆のナヤシ一練る一の工程を長時問かけてつくった、粘りの強い釦漆を塗り、金消粉を蒔きつける。
器物の縁を金属でおおう沃懸からの転語とおもわれる。よく見かけるものに賞状盆がある。
一閑張一いっかんばり一江戸時代、中 国から帰化した飛来一閑の創始といわれている。木型などに和紙を入念に貼り重ね、後で型を抜いて素地としたもの。さらにその上に、紙こよりで編んで漆を施した綱目模様をかぷせた茶器、木や竹などに和紙を貼り漆を塗り重ねたものもある。和紙のもつ暖かい風合が、使いこまれる年月とともに生まれてくる。
いぼた蛾-いぼたろう一イボタやトリネコ類の樹皮の上に寄生するイボタカイガラ虫の分泌物。秋、羽化して樹 上にイボタ蟻と呼ばれる白蟻を残す。一般には桐材の家具類などの艶出しに使われているが、漆芸では鎌倉彫や錆絵などの光沢を出すのに使われている。
色貝一いろがい一薄貝の裏に金箔を貼り、あるいは色漆を塗り、貝を透かして下の金や色を見せるもの。また貝を染料で染めたものなどがある。螺 細の一種。
印籠一いんろう一もとは印判肉を入れたのでこの名があるといわれてい-る。薬をいれて腰にさげる小型の容器で、蒔絵、堆朱などの精巧な細工がしてあり、江戸時代の礼服の装飾品として用いられた。三重、五重にしたそれぞれの合口に凝らされた漆塗の技法や、精繊な技巧を施した蒔絵、根付けにみられる細工など、印籠は末梢的な技術偏重傾いた江戸時代の漆芸の代表作といわれているが、海外では広く紹介され鑑賞されている。
鳥城彫一うじょうぽり一岡山城の 名をとどめた烏城彫は、創始以末四十余年を経てお
りその間身体障害者福祉事業としての更生自立をもはかってきた。近年アメリカに輪出され、県特産品として脚光をあびるようになった。写実的凶柄の彩色のなかにも落着いた渋い 味がある。
一うるし一漆の木は、日本では南は 九州から、北は東北まで栽倍されている落葉の喬木で、この木から採取される樹液である。松や杉の木に傷をつけると、脂を分泌して傷口をおおうのに似て、漆の木もその傷口を保護するために樹液を分泌する。この外皮と材部の 間の漆液溝より惨出する乳白色の粘稠液が漆である。漆の木は七、八年から十年以上たつと、漆が採取できるようになる。特殊な鎌で幹に水平に傷をつけて、じみでてくる漆を採取するが、この漆掻集めのことを「漆掻き」という。六月中旬より採集を始め、十 一月中句まで統けられる。「漆掻き」は、その時期によって品質を異にし、次のように区別される。
  • 六月中旬より七月中旬 初辺(若鎌)
  • 七月下句より八月下句 盛物
  • 九月上旬より九月下旬 未辺(遅鎌)
  • 十月中のもの       裏目(止漆)
  • 十一月中のもの     技掻(瀬メ漆)

こうして集められた漆には、木の皮だとかごみかはいっているが、いわゆる純粋の生の漆で、「荒味漆」といっている。漆樹より採取されたままの「荒味漆」にまじっている爽雑物、水分を除去し、光沢、透明度、乾燥度、肉持など、漆塗の目的に応じた
ものにすることを「精製漆」という。ナヤシー"練る"ことを表現する言葉て練つ合わせて均一の状態にする。クロメー水分を取り除く作業を"クロメル〃という特殊な 言葉で表現している。「ナヤシ」と「クロメ」の二作業を行なった精製漆は、生漆、透漆、黒漆に大別される。

漆刷毛(うるしばけ)漆を塗るときに使う刷毛(下地材を塗る刷毛もある)。漆のような、粘着性の強い塗料を塗るためには、弾力性が強い婦人の頭髪が最上とされている。「毛」は太さ、長さを揃えて、.薄い桧板にぎっしりとつめ込んで作られる。桧板も柾目のよい部分が使われ、この刷毛作りの技術は独特の伝統技法として伝えられている。漆刷毛のもっとも大きな特色は、使っているうちに毛先がすり減ってきたら、桧板を削って、なかの毛を順に削リ出して使える点である。したがって毛髪が柄の長さ全部に通っている。このような刷毛を本通物と呼んでおり、他に半通物 (毛を柄の途中まで仕込んだもの)、山刷毛(毛を先にだけ植え込んだもの)がある。漆工芸に用いられる刷毛の種類には、漆塗用に、漆刷毛・下地刷毛、蒔絵用に、地塗り刷毛 (溜刷毛)・塗リ込み刷毛・置目刷毛・切出し刷毛などがある。
漆風呂一うるしぷろ一塗料の乾燥は、一般に気温の変化と密接な関係があるが、漆の乾燥には温度のほかに、酵素ラッカーゼの作用を活発にする湿度が必要である。
漆のなかにはゴム質があって、そこに含まれているラッカーゼが、空気中から酵素を吸収して、ウルシオールが酸化することによって固体に変わるもので、乾固しやすい条件を与えるため、適温、適湿に調節できる漆風呂が必要である。古くから使われている漆風呂は、木製戸棚形のもので、内部に機を渡して棚が設けられるように作られている。噴霧器などによって撒水し、湿度を与え、密閉して内部の湿度を一定に保つとともに、空気の流通によって塵挨が塗面に付着するのを防ぐ。つねに湿らせておくところから湿風呂、陰室風呂などと呼ばれる。
大内塗一おおうちぬり一戦国時代、大内義隆が山口に居城を定めてより作られていたが、大内氏の滅亡とともに中絶した。江戸末期の文久年間 一八六一〜六四)に岩本梅之進がこれを復興した。うるみ塗に雲形を描き、黄や緑の彩漆で秋草などを配したものが多く、。これに大内家の紋を図案化した菱形の切箔を貼ったものは、秀衡塗を模したものといわれている。近年漆による大内人形を考案し、観光土産として歓迎されている。
折敷一おしき一へぎ板で作られた角盆で、飯器をのせるのに使うもの。懐石道具の一種。
小田原漆器一おだわらしっき一小田原地方の地場産業として栄えている箱根細工、あるいは箱根物産などの木製品や、木目を生かした摺漆仕上げの漆器を総称して小田原漆器と呼ぷ。平安時代中期、荘園早川荘一現在の小田原市早川一に、上方から大挙して木地師たちが集団移住して土着したのがその起源とされており、現在も木地挽という地名が残っている。小田原城内の用具や高級旅宿用の需要に対しては、当地独特の木地呂塗を施したものを納めてこれに応えていたが、この木地呂塗の正式な工程、春慶塗、溜塗などは、他国から招かれた塗師大津藤兵から学んだといわれている。現在、小田原漆器は、伝統的な挽物技術を中心にして、漆器本来の塗物としてではなく、摺漆技法を主体とした漆器として存在している。
掻合せ一かきあわせ一棒、栓、栗材など木目のはっきリした木地に、下地をせずに直接漆を、下塗りから上塗りまで塗り重ねていく。上塗り漆が固まりはじめるころ、気孔のなかにある空気が外にとびだし木目の部分がはじけて雅趣のある年輪の膜様となる。これを通称"目はじき塗〃といっている。また柿渋を数回塗って中塗りまでとし、上塗りだけを漆で仕上げたものを"柿合せ塗〃というが、近年商品には"掻合せ"という語感からか「柿合せ」としたものが多い。昔から茶人に賞美されている塗り方で、主
に椀、膳、銘々皿、茶托などがある。
紙着せ一かみきせ一木地に"布着せ"の代りに和紙を使ったもの。
変リ塗一かわりぬリ一江戸時代に刀の鞘の塗り方として発達したところから"鞘塗"とも呼ばれ、堅牢さと意匠の奇抜さを競い合った。そうしたなかで、工夫され、生まれた塗りの種類は、数百種にもおよぷといわれている。その主なものをあげると、漆に豆腐、卵白などを加え、ね ばりを強くした「絞漆」によるもの-牡丹絞塗(ほたんしほぬり )下塗りの上に絞漆を塗リ、小円形に、牡丹様を表わすように中心に向かって捻り上げたものを基調とし、上に彩漆をかけて研ぎ出し、仕上げていく。柳絞塗(やなきしほぬり )針金に通した玉を絞漆を塗った面に転がすと、枝垂柳のような模様となる。。乾燥後、青漆を塗って乾かし、平らに研ぎつければ、青漆の面に柳の模様が浮かんでくる。そのほか、渦絞塗、叩き塗、時雨塗などがある。さらにこの絞漆に塗引き箆、櫛、針や錐の引っ掻きを利用したものには、青海波塗、縞目塗、木目に似せた 鉄刀木塗、黒檀塗、透漆で仕上げた紫檀塗などがあり、木目の模様を表わした塗りの種類は数多くある。植物の種や葉、粟、稗、もみ殻、棕呂の毛、刻みたばこなどの繊維を蒔き、模様の基本とするものに、津軽錦塗、七々子塗、もみ殻塗、磯草塗、 棕呂毛塗、金虫喰塗などがある。七々子塗の工程は、まず下塗りの上に彩漆を厚めに塗り、すぐに粟粒、菜種などを全面に蒔きつめ、乾いた後、これを拭き落とす。種がついた部分は凹型となり、周囲は漆を吸い上げ円形の文様が並ぷ。これに漆を塗って乾いたら平らに研ぎ上げる。下の丈様は上塗りした面に研ぎ出され、こまかな丸文をしきつめた文様となって浮かび上がってくる。また、貝、卵殼を利用したものには、青貝塗、卵殼塗などがある。透漆を利用したものには、透漆と金箔、銀箔、溜塗、曙塗、磨き出し根来塗、金唐草塗、白檀塗、若狭塗などがある。錆を利用したものには、青竹塗、煤竹塗、胡麻竹塗、松皮塗、桜皮塗、千段巻塗などがある。また綾文塗は、漆錆を平均した厚さに錆付けし、その上に澱粉を蒔き、織物をのせ紙を当てて、箆あるいはゴム・ローラで圧力を加える。織物をとると、織文が塗面に転写される。そのあと彩漆を塗り、研ぎ、金属粉を蒔いたりして織物の綾文様を漆器に再現していくものである。乾漆粉一漆をガラス板などに塗り重ね剥離した後、粉状にしたもの一や、炭粉を利用したものに、青銅塗、赤銅塗、右目塗、石地塗などがある。てつさぴ鉄錆塗というのは、炭粉と紅柄を混ぜて鉄錆に似せた粉を作る。次に下塗り研ぎした上に、黒漆に弁柄を少量混ぜた漆を塗って、鉄錆色の粉を全面に蒔く。十分ほどたつと下の漆を吸い上げて石目状の肌ができる。さらに蒔き込んで乾燥後、平らに研ぎ上げ、摺漆、磨き、摺漆と工程を重ねて仕上げる方法。また鉄錆粉を蒔いて後、引き箆で引っ掻き模様を描くやり方もある。藤、葛、竹、布、紙を利用したものに、網目塗、籠目塗、布目塗などがあり、その他虫喰塗、夜桜塗、吸上げ塗など数多くある。
素地一きじ一漆塗の"もとい"となるものを「素地」という。漆器素地には、大別して次のようなものが用いられている。木材素地漆器のほとんとが木材の素地で、加工の点で次の 三つに大別され、それぞれ"木地師〃という年期のはいった職人さんによって作られている。板物素地-板を貼り合わせて紺み立てる。挽物素地、ろくろ挽きによるもの。曲物素地-一枚の薄板を軟化し曲げる。竹材素地藍胎に漆を塗る場合には編目を つぶす方法と、編目を生かす方法、また他の材料と組み合わせる場合とがある。布-乾漆素地布を漆によって貼り合わせて素地としたもので、自由な形とすぐれた堅牢度がある。紙材素地紙を貼り合わせた、閑狼、和紙をこよりにして編んだ"こより素地〃、また紙パルプを圧搾成形したものがある。陶材素地--素焼のやきものを素地としたもの。"陶胎漆器"と呼ばれる。皮材素地--牛や猪なとの皮を用い、木型によって成形したもの。"漆皮"と呼ばれる。金属材素地--金胎漆器。合成樹脂材素地-合成樹脂による素地もかなり古く、また新しい樹脂も次々と開発されている。とくに営業用食器類の素地には、ほとんどといってよいほど使われている。
合鹿椀一ごうろくわん一能登でただ一つ、海のない村として知られる柳田村字合鹿の土地の名にちなんで"合鹿椀"といわれている。自給自足の生活の中から生まれた、素朴な力強さ、底光りに惹かれる愛好者は多い。
金剛石目塗一こんごういしめぬり一静岡の鳥羽清一の考案による、一種の蒔地塗。近くの安倍川の川砂を、粗いものから細かいもふるのに 篩い分け、素地に生漆を塗り、この砂を粗い順から蒔いてゆき、最後に一番細かい砂を蒔く。地研ぎは下地面に生正味漆を薄く刷毛引きし、金剛砥で平らに砥ぐ。砥の粉と水はいっさい使わず、非常に堅牢な下地の漆器である。現在は鳥羽錬一氏が受け継いでいる。
静岡漆器一しずおかしっき一静岡漆器は今川一門が栄えたころからすでにあったといわれているが、寛永十一年 (一六三四)に徳川家光が、賎機山に浅間神社を造営するにつき、諸国から髭漆の名人、大工、指物師らを多数駿府に集め、社殿造営にあたらせた。そして造営後も永住した人々によって、その技法が伝えられ発達したものといわれている。享保年問、幕府の商業政策によって特別の庇護を受け、販路を拡げた。その後文政十一年、信州飯田の画工天嶺が蒔絵技術を伝え、さらに天保元年二八三〇一江戸から移り住んだ小林留吉、同遷次郎の両人が、多くの子弟に蒔絵の技術を伝授した。指物師、漆塗、蒔絵師の三者が揃ったことで技術面、製作面ともに進歩し、漆器産地としての地位が次第に築かれ、静岡漆器の名声が高くなった。とくに研出し蒔絵は静岡の特技であった。
静岡炭しずおかずみ一油桐を焼いた炭。下塗研ぎ、中塗研ぎ (呂色仕上げの下研ぎ)に使われる。駿河炭ともいう。
下地一したじ一漆による塗りは古来より髭漆法といわれ、「下地」と「塗り」に分けられる。下地は素地の形を整え、堅牢にするために行なわれるもので、漆器の良否は、表面から見ることのできないこの下地の工程に よるところが多い。下地の方法には本堅地、本地、蒔地の三種類あるが、現在一般に行なわれているのは本堅地である。下地は漆を用いるのが本来のすがたであるが、製品をより安く工程を短縮する目的から、漆を柿渋や、米糊、 膠で代用する紛下地(別項参照)がある。
七宝塗一しっぽうぬり一七宝焼に使われる銀、真鍮などの細線を、漆器の模様の輪郭にそって貼りつけ、色漆を塗り込み、研ぎ上げる。金属の鋭い光は蒔絵による線では得られない強さを与える。
芝山漆器一しばやましっき一象牙材を主に、貝(蝶貝、淡貝、鮑貝、夜光貝)、珊瑚などを、薄肉に彫刻し、漆面に嵌入させたもので、下総(現在の千葉県一の大野木専蔵(後に芝山専蔵と改名)が、安永年間(一七七二〜八一)に考案したといわれる。このころ、江戸で仕事をしていた専蔵は、芝山象嵌細工を横浜まで運び、露天で商っているところを外人の眼にとまり、盛んに輸出されるようになる。次第に職人が横浜に移住し、芝山を専業としはじめ、さらに全国の蒔絵師、塗師が居住し、はじめは象嵌細工だけであったが、次第に蒔絵も加飾され、一段と豪華になった。その後、内国博覧会、アメリカ輸出博覧会などに入賞し、その技術の高さを称賛された芝山宗一を輩出し、彼は芝山に携わる職人たちに多大の影響を与え、芝山象挟から次第に横浜独自の漆器が形作られていった。
写真蒔絵一しゃしんまきえ一写真乾板を応用し、写真の印画と同じように、金色や銀色で漆器面に模様を転写したもの。
春慶塗り(しゅんけいぬり)桧、縦などの素地に、黄色ないし紅色を着色し、漆を透かして木目が見えるように、透漆を上塗したもの。山楯子や雌黄を用いて黄色く着色した黄春慶。洋紅、スカーレットを用いた紅春慶。下地には生渋、膠、姫糊、豆汁などの種類がある。後亀山天皇のころ、堺の漆工、春慶の創始したものである。他に"飛騨春慶〃"能代春慶〃"吉野春慶""木曽春慶""日光春慶""伊勢春慶〃がある。
城端蒔絵一じょうはなまきえ一富山県城端町で発達した蒔絵。寛永年問(一六二四〜四四)、治五衛門が長崎で中国人より密陀を学び、その技法、業が代々伝えられ、のちに軽粉という白色の粉末を蒔く一種の色蒔絵を工夫し、城端蒔絵を創成した。まだ白色のない時代であったので大いに称賛された。
吸上法一すいあげほう一漆を上塗りし、表面だけが乾燥して内面がまだ十分乾燥していないときに、焼漆(熱を与えて不乾性にしたもの)で模様を描く。数日して焼漆を拭えば、上塗漆がこれを吸収して隆起し、模様となる。布目塗や夜桜塗など種々の変り塗に応用される。
摺漆一すりうるし一綿に生漆をつけて摺りこみ、のちに和紙をもってきれいに拭きとること。蒔絵では一号以下の金銀粉を蒔いたあとの粉固め、漆塗りでは呂色仕上げの工程のなかで、また木地に漆を吸いこませ、摺漆を重ねて仕上げる変り塗"拭漆仕上げ"の工程にも、さらに錆絵などにも、漆の仕事のなかではあらゆるところで行なわれる。
千筋挽き一せんすじびき一慶安年間(一六四八〜五二)に挽物工、蓑屋平兵衛が考案したといわれる山中漆器がもつ独自の技術。先が二本に分かれた特殊なのみで、一ミリ位の問隔で均等な筋目をつけ、溜塗で仕上げる。椀、盆、茶托などに多く、趣の深いものである。また別に糸目挽きともいわれる。
仙台漆器一せんだいしっき一仙台の漆器は伊達正宗の開府以前にあったといわれ、その歴史は古い。伊達氏が仙台に居を移して以来、歴代の藩主が保護奨励し、ことに三代綱宗の時代には著しく発達した。その発展も維新の変革にあい、ほとんど壊滅したが、明治中ごろより復活し、その後県立工業高校や工業試験所に漆工科が置かれ、漆工の養成が行なわれた。漆器は朴材の板物素地が多く、主に青貝塗、根来塗、東華堆朱塗が生産され、とくに東華堆朱は仙台堆朱といわれ、昭和初期より盛んであったが、今日ではむしろ玉虫塗の生産が多い。また仙台の木地呂塗は撃笥に用いられ、仙台箪笥として知られている。

タイ漆器一タイしっき一タイの漆器は古くから存在し、チェンマイ市がその生産地として有名である。チエンマイ城跡の南側にバーン・クウンという部落があって、その意は漆器部落とのことである。ここの漆器産業は、チェンマイ王朝七百年以来、繁栄を誇ったといわれ、その製品は食器、日用品、美術品から当時国王の王座、仏旦一仏教建築などに及ぶ。有名な金色のバゴダの金箔の下地固めなどにも、漆が多く用いられている。節から節まで一メートルに余りある竹材を割り、編組した藍胎素地が特色である。下地は煉瓦の粉末と砥の粉を混入した切粉地のようなものを刷毛付けし、水研ぎ、錆付、一回、中塗リ、上塗りとし、これにキンマの連統模様を彫刻し、朱、青、黄などの顔料を摺漆して沈みこませる。箔絵技術もこの地の特徴で、黒漆を塗った面に、神々の像や古典神話などの絵模様を描き、そのバックの面を黄粉とヤンマクイット樹の樹脂液で塗りつぶし、黒目漆で摺漆して、一面に金箔を置き、水洗いして樹脂分を除去し、模様を顕出する。醤の技術は古何松に伝わって現在も盛んに生産され、またこの箔絵の抜絵方法に似通ったものが、現在会津地方にあることも、面白いことである。

竹塗一たけぬり一竹塗には青竹塗、煤竹塗、胡麻竹塗、の三種があり、明治の初めに名工橋本市蔵が考案したといわれている。へら 錆研ぎの上に切粉と錆を丸箆で両方から盛り上げ、節を作り、錆研ぎした後、小刀でもう一段の節をつくる。さらに竹はぎの跡や溝を丸刀で彫り、錆をつけ、研いで修整する。青竹塗には青漆を塗るなど、竹の実物に似せ、竹製のように見せる変り塗の一種。
虫塗(たまむしぬり)昭和の初めに国立工芸指導所で創案された技法。中塗りした上に摺漆をして銀消粉を蒔き、乾燥後、染料(ローダミン)で渚色した透漆を塗り、深紅色に仕上げたもの。青色の染料を用いたものもあり、玉虫の羽根の輝きを暗示させるのでこの名がある。
溜塗(ためぬり)朱色の中塗りの上に透漆をかけたものを朱溜あるいは紅溜塗といい石黄漆に透漆を塗ったものを京溜といっている。透漆による半透明の美しさが特徴。
断文(だんもん)漆面に生ずる亀裂のことで、素地の収縮や粗悪な下地が原因で起きる。その形によって亀甲断文、氷裂断文、蜘蛛足断文、梅花断文などと称し、自然に生じた装飾効果と賞美されることもあり、人工的に断文を表わす変り塗もある。
津軽砥(つがると)青森県産の砥石で、大清水砥ともいわれている。石英の結晶が少なく、雲母が多いので、砥石としての粘 性があリ、漆が研ぎやすい。津軽塗において幾重にも塗り重ねられた彩漆を荒研ぎするのに用いられている。
付描き(つけがき )粘りのある絵漆で細い線を引き描きし、細かい粉を蒔き込んだもので細線を表わす蒔絵の手法。
付箆(つけべら)下地付けの箆で、水分を含んでも狂いが少ないところから桧の柾目が使われる。
角粉(つのこ)鹿の角を蒸し焼きにし、砕いて粉末にしたもの。呂色仕上げのときの摺漆を磨き落していくのに使われる。
椿炭一つばきずみ一椿の木を焼いた炭。質が密で、蒔絵の金銀粉を研ぐのに用いる。
東京漆器(とうきょうしっき)徳川家が江戸に幕府を開き、京都の漆工を招致したのが始まりで、以来将軍家、諸大名が競って名工の扶持育成に努めた結果、美術漆器の技術が大いに向上した。また文化の中心地として漆器に限らず、あらゆる分野の職人が育ち、弓師、面打、舞扇、神輿、大鼓師、染物、文身、三味線、か つらといった居職までできて、庶民文化の華やかな時代が統いた。漆器は美術工芸品から高級漆器、大衆向き、蕎麦道具、寿司道具など幅広く作られていた。明治年代に名工柴田是真、川之辺一朝、白山松哉、六角紫水、辻村松華など多数輩出し、東京に居住して、美術工芸の発展をうながした。多くの漆工家を育てた漆器商に、日本橋の通り三軒と称された木屋 (林九兵衛)、きん藤(小林藤兵衛)、黒江屋(柏原孫兵衛)があったが、関東大震災や東京大空襲により現在では黒江屋だけとなった。
砥の粉一とのこ一高級漆器にはかならず用いられる重要な材料で、火成岩の一種。漆工用だけでなく、一般木材工芸の仕上げ、家具類の目止め用など幅広く使われている。漆工では、生漆を加え錆地、地の粉と混ぜ、切粉地も作る。
中塗リ(なかぬり一下塗りの上に、上塗りの効果をよリよくするために塗られる。
名古屋漆器一なごやしっき一名古屋は明治維新までは徳川家の親藩として大藩であったので、召抱えの漆工も数多く、ことに山本春正は"春正蒔絵〃として知られた。また宝永年間(一七〇四〜一一)に帰化人、飛来一閑によって伝えられた一閑張の技法は、名古屋に根付いた伝統として知られるが、時代の推移により次第に衰退していった。大正十五年に黒田忠譲の苦心で、紙を硬化した硬質漆器が作られ、輸出も非常に盛んとなった。
一なつめ一果実の棄に形が似ているところからその名がある。薄茶を入れる木製漆塗の容器。
鳴子漆器一なるこしっき一その起りは明らかではないが、寛永 (一六二四〜四四)ごろはすでに生産され、文化・文政(一八○八〜三〇)には鳴子温泉の土産品として丸物の紅溜塗が生産販売されていた。藩主伊達氏は鳴子に鉄砲組を置いて、平素は塗師として漆塗の仕事を内職させた。これが鳴子漆器の基盤となった。昭和二十六年、沢口悟一氏が、古来の墨流しを彩漆に応用した龍絞塗を考案して新機軸を打ち出した。
新潟漆器一にいがたしっき)藩主上杉氏による漆樹の植栽奨励など、新潟地方の漆器は元和 (一六一五〜二四)ごろに春慶塗に始まったと伝えられる。寛永十五年(一六三八)には「椀店」と称する塗物専売地域が定められ、大変にぎわった。さらに新潟は北陸の要港として諸国の漆器販売を始め、やがてみすから製造するに至ったといわれている。明治以降、吉田久平が、竹を模造した竹塗の手法を導入し、目黒平吉が金磨塗を考案、また磯草塗、堅牢で知られる石目塗などの産地として名がある。かつての新潟漆器界はできないものがないといわれ、すぐれた製品、生産量を誇っていた。今日ではその隆盛期の面影は薄いが、しかし塗りの技術、多彩な手法は他産地を凌ぐものをもっている。
目光漆器(にっこうしっき一建保三年 (一二一五)二荒小神杜が建立されたころ、曲物飯櫃や膳、重箱などを参詣者へ土産物として売り出されていたのが日光漆器のはじめといわれ、寛永年問(一六ニ四〜四四 )美術の精髄を極めた東照宮造営の際、諸国の工人が日光に集まって、竣工の後も永住して日光彫の基を開いた。さらに元禄時代(一六八八〜一七〇四)には公弁法親王が産業奨励のため、現在の日光近郊に漆樹を植え、これを御漆園と呼んだころから本格的な漆器生産が始まった。日光春慶、紅葉塗 、日光彫として知られている。
抜模様塗一ぬきもようぬり一中塗りの上に姫糊と砥の粉を混合したもので模様を描き、全体に彩漆を塗って乾燥後に炭で平らに研ぐ、糊砥の粉が水に溶けてなくなり、模様が一段低く表われてくる。変り塗の一種で型紙を使って行なわれることもある。
布目塗(ぬのめぬり)布目塗といわれるものには布を貼り付ける布張布目塗と、変り塗の吸上法を応用した布目を転写する布目塗とに大別され、研出布目塗、墨絵布目塗、紗の目塗、布張布目塗、布張塗、紗張塗などがある。
布張布目塗中塗りか錆研ぎの上に寒冷紗を糊漆で張りつけ、乾いてから錆つけをして乾かす。布が露出しないように研ぎ、下塗り、中塗リ、上塗りをして呂色仕上げをする。日がたつにつれ漆が締り、痩目によって布目が品よく表われてくる。墨絵布目塗漆を塗って芯がまた乾いてないとき、上塗リ研ぎをし銅擦りを行なう。これとは別に焼漆という不乾性の漆を絹紗につけ、先に胴擦りをした漆器面に転写し、二、三日おく。後に焼漆で転写した布目を拭いさると、漆を吸い上げ、布目が隆起している。これに摺漆をして金箔を置き、膠液を塗リ墨絵を描く。さらに透漆を塗って、乾燥後研出し呂色仕上げをする。布目と金箔の上の墨絵を透視する変り塗の一つ。
塗立て一ぬりたて一
上塗りで漆を塗っただけで、研ぎ出さないで仕上げたもの。花塗、塗り放しともいう。
塗立て漆一ぬりたてうるし一透中漆や黒漆に油分を加えたもの。塗 立てに用いられる。
根来塗一ねごろぬり一黒漆の中塗りの上に朱漆を施した木製漆器を一般に根来塗という。高野山の僧徒が紀州根来に移って根来寺を建 立した際に、寺で使用する日常食器類を僧たちが作ったのがその起リとされている。
糊漆一のりうるし一上新粉に水を加えて練った糊を生漆と練り合わせたもの。素地に布培せを行なう時や布目塗などに用いられる。

箔絵一はくえ一漆で文様を描いて半乾きのうちに金銀箔を貼り、さらに箔の上を針木砥で引っ掻き、細部の文様を表現していく。

衡塗一ひでひらぬり一岩手県内には、古代椀として、秀衡椀、浄法寺椀、正法寺椀の三様の漆器があり、寺院、旧宗、蒐集泰などに今なお遺存されている。  秀衡椀藤原秀衡か京都の工人を平泉に呼んで、彩漆文様に切箔を押した椀を作らせたのに始まるといわれる。約八百年の歴史。朱漆で雲、草花などを描き、雲形の部分に金箔を置き、藤原一二代の栄華を伝える。  浄法寺椀荒沢村は浄法寺椀の産地。浄法寺御山の。天台寺で自家用の什器を製造したのが始まりとされている。"御山漆器〃"浄法寺漆器"の敬語をもって呼ぱれる。  正法寺椀正平年間(一三四六〜七〇)江刺市に建てられた正法寺において、自家用の椀として製作されたもの。大形の椀で糸底に正法寺と朱漆で草書してある。岩手の漆器は、他産地のように一つにまとまった産地形態ではなく、広く県内に散在していて、今日まで引き継がれている。
白檀塗一びゃくだんぬり一金銀粉を全面に蒔き、乾燥後その上に透漆を上塗りしたもの。金銀粉の代りに金銀箔を置く場合もある。
伏彩色一ふさいしょく一べっ甲、琉珀、水晶、ガラスなど半透、透明の材料の裏側に彩色をして、その材質を透かして下にある色彩を見せるようにしたもの。貝に伏彩色したものは色貝。
分根法一ぶんこんほう一漆樹の栽培法の一つ。根を分けてそれを育てて苗木をつくる。その他漆の木をふやすには、播種法、萌芽更新法がある。
本庄漆器一ほんじょうしっき一秋田県本庄市より生産される漆器。大正十二年ごろより地元の土産品として発足した比較的歴史の浅い漆器であるが、県内より生産される国産漆と鳥海山麓の豊富な広葉樹を素材とし、古くからこの地にある毛彫手法や県内にある桜皮張りの技術を漆器の中に取り入れた手法など、その特徴は著しいものがある。
紛下地一まがいしたじ一漆器の下地に用いる漆以外の下地。代用下地ともいう。渋下地柿渋に炭粉を混せたもの。膠下地膠の溶液に砥の粉を混せたもの。糊地-蕨糊に渋と砥の粉、姫糊と砥の粉の二種あって後者は脆弱。酪素下地カセインと砥の粉を混合する。新興塗科のパテ ー、カシュー、シグマ、ニッコート、ポリサイトなど。
真菰粉一まこもふん一池の浅いところに生える水草真菰の黒褐色の細胞。鎌倉彫や変り塗などに使われる。全面に蒔いて軽く研ぎ、低い部分は残して模様をきわだたせる。
明月椀一めいげつわん一木地は桧材で、蓋身ともに安定した形。木口部に漆下地による紐を作 り、割貝の技法で桜花文を表わし、渋味のある朱の塗立てで仕上げられている。

紋紗塗一もんさぬり一紗といわれるもみ殻炭粉を用いて、黒の艶消しの地に艶のある文様を表わした変り塗。

読売新聞社「日本の漆器」より抜粋
●1979年4月25日

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2009/02/24

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最終更新日 : 2009/02/24
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